八重垣神社について

八重垣神社について

八重垣神社

八重垣神社は、島根県松江市佐草町にあり、出雲風土記にも記載のある全国有数の由緒正しき大社造りの荘厳な本殿を持ちます。近在の出雲神話の古社です。意宇六社(神魂神社、熊野神社、揖夜神社、真名井神社、八重垣神社、六所神社)の一つに数えられていますので、時間があれば、六社総てを参拝されることをお勧めします。さて、八重垣神社は、古事記の中でもひときわ清々しい輝きを放つ、ヤマタノオロチ退治伝承の主人公である、スサノオノミコト(素盞鳴尊)とイナタヒメノミコト(稲田姫命)を主祭神としています。

国津神であったオオヤマツミ(大山津見神)の子供で、一帯の祭事を任されていたアシナヅチ(足名椎命)、テナヅチ(手名椎命)には、8人の姫がいましたが、山や田畑を根こそぎ荒らして暴れる大蛇ヤマタノオロチの怒りを静めるために、毎年一人ずつ生贄として捧げ、とうとう八年目、最後の姫を生贄に捧げることとなり、悲嘆にくれていました。高天原を追われて出雲の地を彷徨っていたスサノオノミコトは、絶世の美女であるクシナダヒメが、ヤマタノオロチの生贄として殺されることを知ると、イナタヒメを助けるために、ヤマタノオロチ退治を決意します。そして、イナタヒメの両親であるアシナヅチ(足名椎命)、テナヅチ(手名椎命)に対して、ヤマタノオロチを退治したあかつきには、イナタヒメを妻として迎え入れることをお願いしました。

約束どおりヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは、晴れてイナタヒメと結ばれ、この八重垣の里で幸せに満ちた結婚生活を送ることとなりました。両親の元から娘を奪ってくる強引な略奪結婚が一般的だった当時、正式に両親に結婚のお願いをし、縁結びを成就するというのは、全く考えられない行動でした。このスサノオノミコトの相手側の両親を敬った礼節正しい行為は、それから後、現代にも続く日本の婚姻の姿を形作ることとなったため、以後、八重垣の里は縁結びの聖地として、信仰を集めるようになりました。

現在の八重垣神社は、その八重垣の聖地に、スサノオノミコトとイナタヒメを祭る形で神代の時代に建立されました。夫婦和合と縁結びの象徴として神代の時代から信仰の対象として栄えてきたのには、こうした古事が反映されているというわけです。

鏡の池
鏡の池

奥の院社
奥の院社

子宝御神木
子宝御神木

大杉
大杉
夫婦椿 1
夫婦椿
夫婦椿 2
夫婦椿
連理の玉椿
連理の玉椿
和歌
和歌

祭事

5月3日 祈年祭・身隠し神事
八重垣神社に伝わる古伝祭で、スサノオノミコトが大杉にイナタヒメを隠し、その周りを八重の垣を設けて、ヤマタノオロチから守った故事に起因する祭です。その年の豊作を祈る祭である祈年祭に合わせて行われます。
ヤマタノオロチ退治の際に、イナタヒメが奥の院、佐久佐女の森にご避難された故事をもとに、分霊を御輿(みこし)に遷して、鏡の池、夫婦杉の御所まで行列を仕立て、「ヤイトウ、マイトウ」と連呼し、行列を組みイナタヒメを奥の院へとお連れする儀式です。神事では「鏡の池」の水で炊いた名残の御膳を供えて祭式が行われます。

身隠し神事1 身隠し神事2 身隠し神事3 身隠し神事4

10月20日 例祭
八重垣神社、三大祭のひとつ。神社本庁などから幣帛(「へいはく」と読む。祭祀において祭神に奉献するものを指す。本来、「帛」は布の意味で、布が大変に高価で貴重だった昔、布が神への捧げ物の中心となっていたことの名残でもある)をいただき、それを御供えして世の安泰を祈るお祭

12月15日 新嘗祭(にいなめさい)あわせ還幸(かんこう)祭
新嘗祭は、その年の作物の収穫を感謝するお祭。
環幸祭は、5月に奥の院の森に避難されていたイナタヒメを、奥の院にお迎えに行き、本殿にお迎えするお祭

八重垣神社と佐久佐家のつながり

八重垣神社には、スサノオノミコトの末裔となる大国主命ことオオナムチノカミ(大己貴神)と、スサノオノミコトとイナタヒメの間に出来たお子様である、アオハタサクサノヒコノミコト(青幡佐久佐日古命)も合祀されています。現在の八重垣の里は、神代の時代は佐久佐の里と呼ばれており、その佐久佐の里を実り豊かな田園地帯にしたことが、アオハタサクサノヒコノミコトの名前の由来とも言われており、現在八重垣神社を祭る神官も神代の時代より佐久佐家(現在は佐草家と書く)が、執り行っており、地番の佐草町も、その名残をとどめているといわれています。境内、奥の院の神域も、古来より『佐久佐女の森(サクサメノモリ)』と呼ばれていることからも、それは裏づけされております。

また、神代の時代から伝承され続けてきた、出雲神楽歌の中にも『いざさらばいざさらば、連れて帰らむ佐久佐の郷に』という和歌が読み込まれており、めでたく結婚したイナタヒメとスサノオノミコトが、オロチ退治の際に八つの垣をめぐらして姫の身を守った、真の意味でのパワースポットであるこの佐久佐の地に格別の愛着を感じ、ここに新居となるお宮を建立したものと考えられています。その名残が、八重垣神社と佐草一族、佐草町という地名で、現在につながっていると思われています。

八重垣神社から始まる「八雲の道」

日本独自の発展を遂げた和歌は、もともとは31音を定型とする短歌のことを指しています。日本古来から伝わってきた和歌を、初めて定義づけた古今和歌集仮名序の中で、和歌は「すさのをのみことよりぞみそもじあまりひともじはよみける」と書かれており、スサノオノミコトが詠んだ三十一文字(みそひともじ)が起源であることを明記しています。古今和歌集でも示されているその初めての和歌は、古事記の中に現されており、八重垣神社の境内の石碑にも刻まれております

「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」

この一句がスサノオノミコトがイナタヒメのことを想って詠んだ、愛情いっぱいの日本最初の和歌なのです。その初めの語句である「八雲(やくも)」をとって、和歌の歌道のことを現在でも「八雲の道」と言うほどです。

さらに和歌を愛するこの出雲の地では、『いざさらばいざさらば、連れて帰らむ佐久佐の郷に』といった、夫婦が手を取り合って希望に胸を膨らませて新天地に向かう様子を詠う歌も愛され続けてきました。そして、『早く出雲の八重垣様に縁の結びが願いたい』 という歌は、出雲に於ける最古の民謡として地元では愛され続けています。神社境内には、イナタヒメが地に立てた2本の椿の枝が交わって一本の巨木になったという言い伝えの椿、「夫婦椿」がありますが、この椿の葉の中には、根元がひとつで先端が二つに割れている葉が現れることのある縁結び信仰の厚い御神木もあります。これに因んだ歌として、 「出雲八重垣、祈願をこめて、末は連理の玉椿」という歌も、古来より親しみを持って詠い継がれています。まさに、日本人が営々と育んできた和歌の道『八雲の道』は、八重垣神社を中心とする八重垣の里から、日本各地へと広がって行ったのです。

ちなみに『古今和歌集仮名序』では、和歌について『やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。』と定義しています。神代の時代、人々を苦しめ続けてきたヤマタノオロチを退治し、愛するイナタヒメを守り抜いた日本最古の英雄、スサノオノミコトは、結婚の神・縁結びの神としてだけでなく、日本人の精神に豊かな歌心をも育て上げた風流の歌人でもあったのです。スサノオノミコト以来、日本人の男性は子々孫々、愛しい女性の気を引くために、美しい歌をつづり続けてきました。今でも、気の利いた一言を奏でられる男性が、粋な人として女性を虜にしているのは、こんな所に源流があるのです。

八重垣神社壁画について

スサノオノミコトとイナタヒメを主祭神とする八重垣神社では、御本殿最奥の壁面に、極彩色豊かな神々の壁画が描かれていると、古くから伝わっていました。しかし、神殿の最も奥に設置されていたため、かつては神事を司る神官たちが拝謁できるのみでした。

壁画は、第59代天皇、宇多天皇の発令によって出雲の地に国庁造営をする際、寛平5年、893年に本殿造営も同時に行われ、その際に本殿羽目板に描かれたものと推察されています。社伝によると作者は、平安時代前期を代表した高名な宮廷画家、巨勢金岡(こせのかなおか)が、当社に参籠して描いたものとされています。の槍鉋(やりがんな)で板を削り、その壁面に白土を塗って下地を作り、そこに鉱物などを砕いて絵の具を作り、鮮やかな着色の施された絵画が浮かび上がっていました。しかし、天正13年、1585年の遷宮で大規模な社殿縮小造営が行われた際に、劣化著しかった壁画に再び手が加えられ、巨勢金岡の筆をなぞる形で、当時の室町から桃山にかけての流行の作風の筆が新たに加えられたものと見られています。

壁画には、スサノオノミコトとイナタヒメの一面、アマテラスオオミカミとスサノオノミコトの剣から生まれた宗像三女神の二番目の女神イチキシマヒメ(市杵嶋姫命)の一面、そしてイナタヒメのご両親であるアシナヅチ、テナヅチで一面の計3面、六神像が描かれていました。古色蒼然雄渾な筆力をもって描かれたその作品は、神社建築史上類例のない貴重な壁画と推賞され、国家より重要文化財の指定を受けることとなりました。

しかし、神殿修復時に長年にわたって守られ続けてきた貴重な壁画も、劣化損傷の心配が出てきたため、本殿での品質維持は限界に達していることが判明し、昭和41年1966年本殿から移設され、湿度・温度管理の徹底した安全な宝物収蔵庫で一般公開される運びとなりました。かつては、選ばれし神官しか目にすることの無かった、神様たちの姿を御拝謁できる現在は、昔の人たちにとってはまさに奇跡的な出来事に思えることでしょう。皆様も拝観の際には、神様にお祈りするのと同じ気持ちで、お参りいただき、その有り難いお姿を瞼に焼きつけていただきたいと思います。

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