出雲八重垣神代の話
まだ世界が、海だけだった、むかしむかし。
天上の世界、高天原に住む神はイザナギとイザナミに下界を作るように命じました。
二人が天浮橋から天沼矛で海を掻き回すと、その矛から落ちた滴が島へと変わっていきました。
次に二人は、下界を守る神々を誕生させました。
しかしイザナミは、火の神を産んだ時、火傷をおって死んでしまうのです。
イザナギは、黄泉の国までイザナミを連れ戻しに行きますが、失敗してしまいます。
一人、黄泉の国から帰ったイザナギが、死の汚れを清めるために体を洗ったとき、多くの神が生まれました。
左の目を洗った時にアマテラスが、右の目を洗った時にツクヨミが、そして、鼻を洗った時にスサノヲが、誕生したのです。
イザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜を治めている夜之食国を、そしてスサノヲには陸地以外の場所である海原を、それぞれ治めるように命じました。
ところがスサノヲは、亡き母神イザナミのことを思い、悲しみ泣いてばかりいたので、海は乱れ、災いがはびこりました。
怒ったイザナギは、スサノヲを海原から追放しました。
スサノヲは、母の面影を求めて、姉のアマテラスが住む高天原へと身を寄せます。
しかし、ここでも姉の気を引こうとするあまり、悪気もないままに数々の事件を引き起こします。
とうとう心から慕っていたアマテラスや、高天原の八百万の神様たちをも怒らせてします。
こうしてスサノヲは、高天原からも追放されてしまいました。
傷心のスサノヲは、出雲国に降りたち、やがて美しい肥河のほとりにたどりつきました。
川面に目をやると、一本の箸が流れてきます。
スサノヲはそれを拾い上げると、箸に導かれるように、川上に向かって歩き出しました。
どんどん進んで行くと、小さなお社が見えてきます。
中を覗くと、老夫婦が若くて美しい姫を抱き、さめざめと泣いていましたが、突然訪れたスサノヲに驚き、震え始めました。
スサノヲは微笑むと 拾った箸を差し出しました。
それを見た老人は箸が戻ってきたことをたいそう喜び、今度はうれし涙に変わりました。
「姫の箸が返ってきましたぞ」スサノヲが泣いていた理由を尋ねると老人は涙をぬぐい、話し始めました。
「これも箸が渡してくれたなにかのご縁。すべてお話しいたしましょう」
「私は、この国の神オオヤマツミに仕えるアシナヅチ。妻はテナヅチ、そして娘はクシナダヒメと申します。
我が一族は、代々村を災いから守って参りました。ところが七年前よりヤマタノオロチが暴れ出しました。私共には八人の娘がおりましたが、ヤマタノオロチの怒りを鎮めるために、毎年一人ずつ生け贄をさし出し、とうとう今年は最後の一人となりました。今は、抱き合って嘆き悲しむことしかできません」
アシナヅチが溜息をついたその時、燈明の光が揺らめいて、闇の中の姫を照らしだしました。
その美しいことといったら、これまで見て来たどんな陽射しよりも輝いてどんな夕陽よりも切なげでどんな月光よりも神々しくどんな星影よりも凛としていました。
真っ暗だったスサノヲの心に、初めて温かな燈明が灯りました。
「ヤマタノオロチとは、一体どんな生き物なのです?」
スサノヲが尋ねると、アシナヅチが「その目は、ホオヅキの実の様に真っ赤に輝き、ひとつのからだに頭と尾が八つずつある大蛇です。
その大きいことと言ったら。背中には、コケや樹木が生い茂り、長さは八つの谷と八つの山をまたぐほどです。その上、体は食い荒らした人や獣の血で汚れていて、ものすごい悪臭を撒き散らしており、この世のものとは思えないほど、恐ろしい怪物です」 と答えました。
その言葉を受けるようにテナヅチも「そんな化け物に大切な娘たちが無残にもひとのみに呑まれてしまったのです。親として何もしてやれなかったことがただ、悔しくて。ただ、哀しくて…」
そう言うと、三人は再び手を取り合ってさめざめと泣き始めました。
その話を聞いたスサノヲは、テナヅチとアシナヅチの前に膝を折りました。
「私がヤマタノオロチを倒し、姫をお守りしましょう。もしそれが叶ったのなら、どうか姫を私にください」
スサノヲの突然の申し出にテナヅチは驚きましたが、あまりにも礼儀正しい所作に、心が動きました。
「失礼ですが、貴方様はどういったお方でしょうか?」
「私は、イザナギの子供のひとり、スサノヲです。姉にアマテラス、兄にツクヨミがいます」
「それは、なんとも尊い神様ではありませんか。箸がご縁とはいえ、なんともありがたいお話しです。憎きヤマタノオロチを退治したあかつきには、貴方様に晴れて娘を差し上げましょう」
クシナダヒメも、嬉しそうに恥ずかしそうに頷きます。
こうして初めて、両親の了解を得た、正式な婚約の形が出来上がったのでした。
クシナダヒメとの婚約を取りつけたスサノヲは、ヤマタノオロチ襲来に備え始めました。
まず、村人たちを先導して、杉の大木が生い茂る佐久佐女の森の周りに、幾重にも張り巡らした高い垣を作りました。その最も安全な垣の中央の奥の院に、お社を建立し、その奥の院にクシナダヒメたちを住まわせました。
その垣は、ちょうど八重になっていたので、人々はそこを『八重垣』と呼びました。
八重垣の中央には、滾々とわき出る清水の泉がありました。
クシナダヒメが朝な夕なにその身を映し、神託を受け取たことで、その泉は神聖な場所になりました。
この清らかな泉は姿形を映すだけではなく、心のあり様を映す姿鏡としての力をもったのです。
こうして、奥の院の神秘の泉は『鏡の池』と呼ばれるようになりました。
次にスサノヲは、村人たちにお酒作りを命じました。
ヤマタノオロチが、酒好きだと聞き、強いお酒で酔わせてしまおうと考えたのです。
一度作ったお酒になおも米や麹、水などを加え、また発酵させて絞り込みます。これを八回も繰り返し、とうとう人ならば一口飲んだら昇天するほどの強い『八塩折の酒』が完成しました。
最後にスサノヲは、生け贄の祭壇を取り囲むように八つの垣を作らせました。
八つの垣の前に八つのやぐらを組んで、その上に大きな大きな酒瓶を一つずつ置きました。
そして、八つの瓶には八塩折の酒をなみなみと注ぎました。
いよいよ、ヤマタノオロチとの決戦の日。
すべての準備を終えたスサノヲは、クシナダヒメの住む奥の院のお社を訪れました。
クシナダヒメは、スサノヲを鏡の池のほとりに誘いました。
鏡の池は、今までにないほど澄みわたり、水面には一片のさざ波も立ちません。
そこに映った寄り添う二人の姿は、あまりにも美しくあまりにも鮮やかだったので、鏡の池はしばらくの間その水面に貼りつけたままにしてしまったほどでした。
水面に残った二人の姿は、その後二本の杉の大木に姿を変えました。二本の杉は、二人の穏やかな時間を現すご神木として
『夫婦杉』と呼ばれ、今でも水面に映り続けているのです。
鏡の池に映ったスサノヲがあまりにも凛々しく、心に一片の曇りもないことを知って、クシナダヒメは、スサノヲの武運を確信しました。
スサノヲは、鏡の池に映ったクシナダヒメがあまりにも美しかったので、絶対に守ってみせると心に誓いました。
クシナダヒメは、頭にさしていた櫛を取ると、祈りを籠めてスサノヲの髪にそっと差し込みました。
「この櫛を私だと思ってお側に置いてください」
その言葉にスサノヲは、クシナダヒメを安心させるように笑いました。
「この櫛を姫だと思って戦います。必ずヤマタノオロチを倒して、迎えに来ますから、安心して待っていてください」
スサノヲはそう言うと、クシナダヒメの着物を借りて、さっそうと出掛けて行きました。
こうして、櫛は、送った人の分身として送られた人を守る、聖なる守護の贈り物とされるようになったのです。
かがり火の中、生け贄の祭壇の上にはスサノヲが、クシナダヒメの着物をはおり、待っていました。
夜も更けた頃、ズルズルと地面を揺らす不気味な音が響き渡り、息もできなくなるような悪臭が立ち込め始めました。
ヤマタノオロチがやってきたのです。
ヤマタノオロチは、祭壇の上の人影を見つけ、すっかり生け贄の姫だと信じ込んでいました。
それより、辺りに漂う酒の匂いに気付き、もう我慢することができません。ヤマタノオロチは、八つの頭を八つの垣に突っ込むと、やぐらに置かれた八つの瓶の中の八塩折の酒を息もつかずにガブガブ飲み続けました。
そしてしばらくすると、ひと首、またひと首と崩れるように酔いつぶれ、いびきを立て始めました。
「しめた。今のうちだ」スサノヲは、姫の着物を脱ぎ棄てると、祭壇から飛び降りて、ヤマタノオロチの首をはねていきました。
頭を失ったはずのヤマタノオロチの八つの尾は、それでもまだ暴れ続けています。
スサノヲはのたうち回る八つの尾も、すべてずたずたに切り落としました。
最後の尾を切り落とした時、カチンと音がして、剣の刃が少し欠けました。
その部分を切り開くと、そこから一本の立派な太刀が現れました。
それは後に天叢雲剣と呼ばれる国の宝物となったたいへんに優れた宝剣でした。
スサノヲはしばらく見とれていましたが、すぐに鞘に納めてしまいました。
いつの間にか朝が来ていました。ふと見降ろすと朝焼けの肥河は、ヤマタノオロチの血で真っ赤に染まっています。戦いは終わったのです。
スサノヲとクシナダヒメは、テナヅチ、アシナヅチや村人たちに祝福されてめでたく結婚しました。
スサノヲは、ヤマタノオロチから出てきた宝剣を、高天原のアマテラスに献上しました。
神の領域にあるべきものを人が手にすれば、ヤマタノオロチと同じように争いや災いを撒き散らし、多くの悲劇を生むに違いないと思ったからです。
今のスサノヲにとってかけがえのないものは、クシナダヒメの愛だけだったのです。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
「たくさんの雲がわき立つこの豊かな出雲の里に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼっている。
妻を守るために、お社に何重もの垣を作ったが、この出雲の空は、ちょうどその八重垣を巡らした様だ。
きっと穏やかで争いのない平安な土地になるだろう」
この時詠んだスサノヲの和歌は、日本最古の和歌となりました。
クシナダヒメは、 スサノヲとの永遠の愛を誓って、佐久佐女の森に椿の枝を二本、並べて植えました。
不思議なことに、二本の椿は寄り添い、一本の大木へと成長していきました。
その葉も、あたかも二枚の葉が重なり合ったように、葉先が二つに分かれた美しいものになりました。
人々はこれを『連理の玉椿』と呼んで、夫婦の永遠の愛の象徴として大切にするようになりました。
スサノヲはといいますと、母を失ったことで荒ぶれていた心がクシナダヒメの優しい愛に包まれて、すっかりと静まったのでしょう。
以後、剣を振り回すことも、暴れ回ることもなくなり、出雲八重垣の地で、クシナダヒメと寄り添いながら出雲の国づくりに力を注ぎ、幸せな日々を送りました。
その互いに慈しみ合う二人の姿は、まるで連理の玉椿の姿そのものでした。
佐草 一優 作
古事記編纂1300年を記念して古事記外伝を出版!
著者の佐草一優(サクサカズマサ)は、スサノオノミコトとクシナダヒメを主祭神とする八重垣神社の2代前の宮司の孫に当たり、幼い頃より、親戚や宮司から古事記にまつわる様々な話を聞かされてきた。今回出版した古事記外伝は、当時聞いた話や佐草家に代々伝わる古文書を元に書き下ろした話題作。
産みの神としての座を追われ、
高天原からも追放された傷心のスサノオ。
そんなスサノオが、絶世の美女クシナダヒメと巡り合ったことから、
生きる意味と誇りを取り戻していく。
邪悪の化身ヤマタノオロチを倒し、
最愛のクシナダヒメを守り抜いた時、
人々の心にも新たな奇跡が芽生え始めることに…。
八重垣、鏡の池、連理の玉椿、そして新たに八重輝石の秘密が、
次々に明かされていく…
壮大な古代ロマン、ここに完結。
商品の寸法:B6(128.5 X 182mm)
著者:佐草一優
絵:渡邊ちょんと
発行所:神話路プロジェクト
定価:1,400円(税別)
大好評の古事記外伝が新聞でも紹介されました!!